青森県弘前市・秋田県大館市


総務文教常任委員会・行政視察報告書

平成13年4月25日(水)〜27日(金)


「白神山地ビジターセンター」エントランス


議会事務局に提出した報告書をHP用に、アレンジしております。
またコメントも入れております。


作成者 角田訓也   2001.05.05



議長

副議長

事務局長

事務局
次長

主幹

係長

係  員




総務文教常任委員会・行政視察報告書

平成13年5月1日

笠 岡 市 議 会 議 長 殿

     

(出張者)

委員長

角 田 訓 也


委員長

原 田   毅

 

委 員

明 石 和 巳

委 員

馬 越 裕 正

 

委 員

築 地 久 雄

委 員

藤 井 義 明

 

委 員

山 本 俊 明

議会
事務局

次長 定平寿夫

 

教育長

安 藤 伸 吾


下記のとおり行政視察を実施したので、その結果を報告致します。





【1】 青森県 白神山地ビジターセンター

住所

 〒036-1411 
 青森県中津軽郡西目屋村大字田代字神田61-1

電話

 TEL 0172-85-2810    FAX 0172-85-2833

視察案件

 白神山地世界遺産の保全について

期日

 平成13年4月25日(水)15:15〜17:00 

応対者


 白神山地ビジターセンター 館長 富岡 司氏

視察状況

 別紙写真のとおり

訪問施設

 白神山地ビジターセンター


概要


 白神山地は、青森県と秋田県にまたがる約13万haに及ぶ広大な地域を指し、わが国有数の規模を持つブナの天然林を主とする地域である。
 この白神山地の青森県側の北西部には「津軽国定公園」が位置し、東北部には「赤石渓流暗門の滝県立自然公園」が、秋田県側の東部には「きみまち坂藤里峡県立自然公園」が、そして西部には「八森岩館県立自然公園」が位置している。
 また、白神山地には、大川、赤石川、追良瀬川、笹内川、そして秋田県粕毛川の源流部が集中し、ほとんど手つかずの状態になっており、特に原生的なブナ天然林が広範囲にわたって分布している。

 このような白神山地のすぐれた自然環境は、学術的にも貴重であり、そこに生息・生育している動植物は世界的水準に照らしても極めて重要であることから、平成5年にその核心地域を含め16,971haが世界遺産リストに登録された。

 青森県では、白神山地の自然環境の保全及び利用の基本的方針と、これを実現するための基本的な方策を明らかにする「白神山地保全・利用基本計画」を平成6年3月に策定した。

 今後は、入山者のマナー向上のための啓発指導を充実するとともに、平成7年11月に国(環境庁・文化庁・林野庁)が策定した「白神山地世界遺産地域管理計画」との整合性を図りつつ、「白神山地保全・利用基本計画」に基づいて白神山地の価値についての普及啓発活動、県民の意識高揚、自主的な活動の促進等の保全対策を関係市町村等と一体となって推進していくこととしている。
 また、国(環境庁)は、白神山地の保全管理、学術研究の拠点施設として「白神山地世界遺産センター」を平成7年度から8年度に整備した。青森県もこれに併設して、環境学習や情報提供等の機能を有する「白神山地ビジターセンター」の整備を進めた。

白神山地ビジターセンター

白神山地の世界最大級のブナ原生林・そのブナの森が支えてきたさまざまな動植物・そして太古から私たち人間の暮らしとの係わり合い・「母なる木」「天然のダム」とも呼ばれるブナの木、ブナの森の全てを立体的な展示と大型映像で余すところなくご紹介している。

展示ホールは、白神山地の自然を守ってきたブナのすべてをテーマ毎にコーナー展示をし、わかりやすく、楽しい体験ができる。情報図書コーナーは、白神山地にまつわる情報にくつろぎながらふれる場として、図版、書籍等を閲覧する機能をあわせ持つサロンとして利用できる。映像体験ホールの超大型映像システム「アイマックス」によるプログラムは、あたかも今、自分が白神山地にたたずんでいる
ような臨場感と圧倒的な迫力で世界自然遺産 白神山地の四季を紹介している。
とにかくスクリーンの大きさと大音響に圧倒される。約30分の上映で白神山地の全てを知ることができる。

 海外の代表的な世界自然遺産の紹介につづき、国際的な生命学者:ライアル・ワトソン博士が向白神岳をバックに白神山地の遺産価値を語っている。やがて、樹令300年のブナの木になりきった俳優:藤岡啄也が、白神山地「世界最大級のブナ原生林」の四季を通して、動植物の生態や森と人々との関わりを語る。全編を貫く印象的な音楽は国際的に活動している作曲家:三枝成彰、監修はドイツの著名な映画・舞台監督:ベルナー・ヘルツオークが担当している。

 白神山地の素晴らしさ・美しさ・奥深さとともに、次の世代へこれを継承していくことの大切さを伝えている。また白神山地ビジターセンターの正面一帯には、ブナをはじめとする白神山地を代表する樹木が植栽されており、木製ウォークデッキを歩きながら、間近に木々を観察することができる。

 白神山地世界遺産センター

白神山地ビジターセンターに隣接しているこの施設は、主に白神山地の専門的な調査研究の基地としての性格を持つものである。標本庫・実験室・収蔵庫などを備えているほか、展示・資料コーナーでは白神山地の勉強にも活用できる。

 〒036-1411 
青森県中津軽郡西目屋村大字田代字神田61-1
TEL 0172-85-2622 FAX 0172-85-2635

 なお、西目屋村ではこのセンターの近くに簡易宿泊所を準備しており、研究等を目的とした宿泊が可能である。
 (西目屋村企画観光課 TEL 0172-85-2111まで。)

白神山地ビジターセンター
研修室にて
白神山地の北に
そびえる「岩木山」
白神山地ビジターセンター
研修室にて


以前観た映画「ガイアシンフォニーU(地球交響曲・第2番)」で
   岩木山の麓「森のイスキヤ」の佐藤初女さんという老婆が登場した。   

「森のイスキヤ」は、ロッジ風の建物で人里から離れている。

「食」はいのちと確信し、
自らの重い病気も食べ物で治した老婆は、
訪れる人をまるごと受け入れ、
手料理を一緒に食べ、元気づける。

自然の食材を手作りするのだ。 

梅干・漬物・おむすび・お茶入り栗ごはん・カボチャのコロッケ
菊の花の酢の物・キャペツいため・昆布入りキンピラゴボウ
ナスのシソの葉巻き・菜の花のからし和え・ニンジンのクルミ和え
アジの南蛮漬け・イワシのおから蒸し・

苦しむ人・弱い立場にいる人をはじめ
助けを求めて訪れるすべての人を迎え入れ、
おいしい手作り料理と、生活をともにすることにより、
元気付けている。

「ガイアシンフォニーU(地球交響曲・第2番)」を
自主上映(笠岡商工会議所青年部・設立記念行事)
したときから、「岩木山」・「弘前」・
「白神山地の世界遺産のブナ林」に対して、
いつかは訪れたいと密かな想いを持ちつづけてきた。

この度の行政視察で、「岩木山」を遠くから眺めることができた。
「弘前の文化」にも接することができた。
また「白神山地」の入り口の「ビジターセンター」で
その保全活動も知ることができた。

また、何かの機会に、ゆっくりと白神山地を訪れてみたい。
そして、その自然のドラマを心に焼き付けてみたい。


添付資料

 視察資料  視察状況写真 名刺




【2】 青森県 弘前市議会

住所

〒036-8551 青森県弘前市大字上白銀町1-1 

電話

TEL 0172-35-1111   FAX 0172-35-3005 

視察案件

学術文化都市づくりについて
歴史的建造物の保存について

期日

平成13年4月26日(木) 9:00〜11:30

応対者


 9:00〜 9:30  弘前市の概要について・弘前の「桜」の取り組みについて

             弘前市議会事務局次長補佐兼総務係長・碇谷 明氏

9:30〜10:00  学術文化都市づくりについて

            弘前市企画部企画課課長補佐・野呂雅仁氏

10:00〜10:30  歴史的建造物の保存について

             弘前市教育委員会生涯学習課文化財係・小嶋修造氏

10:30〜11:30  仲町・伝統的建造物群保存地区の現地視察

             弘前市教育委員会生涯学習課文化財係主事・ドイル真奈美氏

視察状況

別紙写真の通り

訪問施設

弘前市議会

弘前市・仲町伝統的建造物群保存地区


概要


 「お城とさくらとりんご」に象徴される弘前市は,津軽平野の南部に発達した約400年の歴史を持つ城下町で,東に八甲田連峰,西に秀峰岩木山,南に白神山地に続く山並みが迫り,北には岩木川が流れる豊かな自然環境に恵まれた,数々の歴史的遺産と文化が息づく落ち着いた雰囲気の街である。人口は約17.7万人である。

弘前市においては、弘前公園に樹齢100年以上のものを含めて約5000本の桜を植樹している。桜の管理技術は、リンゴ栽培職人のプロの技術を生かして卓越している。通常では考えにくい思いきった剪定を行い、切り口に墨汁を塗っている。また十分な肥料を与えて他に類のない素晴らしい桜の花を咲かせている。弘前公園の人件費を除く管理費は、年間に約4億2000万だという。

こうした努力により、全国から多くの観光客がゴールデンウィークを中心に135万人も訪れるという。その経済波及効果は大変な金額になり、弘前の魅力を全国に発信している。(ゴールデンウィークの100万人以上の予想は、@博多どんたく・200万人 A広島フラワーフェスティバル・145万人 B弘前さくらまつり・136万人 C横浜みなとみらい地区・112万人 D浜松まつり・103万人)


 学術文化都市づくり

歴史と教育・文化の蓄積は、弘前市の都市個性のひとつである。教育施設としては、義務教育施設の充実を図り、市民の生涯学習意欲を満たす社会教育・社会体育施設などの整備を進め、弘前大学の拡充運動を強力に推進している。
 また、先人の残した多くの歴史的・文化的遺産を保存・継承し、芸術・文化活動の振興を図っている。

高等教育機関に関する施策として、
@学術国際振興基金(地域における学術国際活動の活性化を推進するために、青森県と弘前市が合計6億円の基金を積み立て、学術の活性化推進事業、学術の国際交流推進事業、地域産業科学技術の活性化推進事業のために活用している。県が5億円・弘前市が1億円の合計6億円の基金で、平成11年度から20年度まで10ヵ年で年額6000万円ずつソフト事業を実施する。)
A私立大学施設整備の支援(弘前市私立学校助成条例に基づいて助成。)
B弘前大学拡充促進期成会(弘前大学を総合大学として整備拡充いるために県をあげて運動を展開。)
C弘前大学拡充整備促進特別委員会(弘前市議会において議員8名の特別委員会を設置。)
D弘前大学地域共同研究センター連絡協議会(産学連携型共同研究の推進を図る。)
E弘前大学運営諮問会議(学外有識者の意見を聴く。)

歴史的建造物の保存

津軽藩は、この地に独特な津軽の文化を育てるため、中央から数多くの職人を招いたり、地元の職人を技術習得のため中央に派遣するなど、地場産業の振興を図っていた。こうした風土的な特徴は、明治の文明開化にも大きな力となり、いち早く西洋文化を取り入れることができた。現在に残る明治の洋風建築にも、そうした地域的な特徴を見ることができる。代表的なものとして、青森銀行記念館・日本キリスト教団弘前教会・弘前学院外人宣教師館などがあり、この地方の技術を集大成したような立派なものである。また中には、教会の説教台に津軽塗を使用するなど、津軽独特の技術で工夫されている建物もある。

弘前市内には、史跡弘前城跡をはじめ、津軽藩政時代から保存継承されてきた有形・無形の歴史的遺産が多く残されており、平成11年10月現在で指定を受けている文化財は、国指定24件、県指定39件、市指定71件の系134件となっており、このほか重要美術品1件となっている。
 市では、これら文化財の保存対策として、これまでも弘前城跡の保存整備を初めとして意を尽くしてきたが、最近では、仲町伝統的建造物群保存地区の修理・修景、史跡津軽氏城跡堀越城跡の整備や、無形民俗文化財の用具修理などにも積極的に施策を進めている。また、その他の文化財につていも、図書館資料、博物館資料として幅広く収集し、その保存や活用も図っている。

弘前市に残る歴史的建造物の特徴は、戦国時代の津軽統一・津軽藩4万7000石・江戸時代初期の城下町・弘前城跡・神社寺院の建築物・明治期に教育、宗教活動の普及・明治洋風建築物である。

また一般の民家を弘前市仲町伝統的建造物群保存地区に指定している。この弘前築城当初以来の街並みである保存地区は、開発行為に伴い、建造物はもとより生垣(サワラ垣)や門も壊されつつあり、歴史的景観が失われようとしている。これらの歴史的風致を史跡弘前城跡と調和を保ち、維持するため保存地区の伝統的建造物等を地区住民の協力を得て管理・修理・修景及び復元している。保存地区の面積は約10.6haで、昭和53年に指定されている。

弘前市内の指定文化財の建造物は、国指定重要文化財29棟・青森県指定建造物15棟・弘前市指定建造物7棟である。所有形態は、寺院・神社・教会・学校法人・個人である。個人所有の2件に関して有料公開している。

指定文化財の維持管理については、国指定の重要文化財の修理事業、防災設備設置と保守点検の補助等である。修理の補助率は、所有者の支出能力により国が補助し、県と市も上乗せしている。県指定文化財・市指定文化財も同様だが、負担割合は多くなる。雪国における雪及び寒さ対策も必要である。

指定以外の建造物に関しても、聞き取りによる旧武家屋敷や農家住宅の年代調査を行い、平面図・立面図を作成して基礎調査を行っている。また詳細図面を作成して解体保存を検討している。

今までの移築復元は、農家住宅2棟と旧武家住宅2棟である。公開している旧武家住宅2棟は現地視察させて戴いた。

「弘前の文化財」という冊子を戴いた。183ページで平成12年3月の第7版の冊子である。冊子には、弘前の伝統的建造物を含めた弘前の文化財が掲載されている。

笠岡市にも「笠岡の文化財」という冊子があるが、昭和59年の改訂という古いものである。早急に新しい内容に改訂すべきだと思う。

笠岡にも西の浜・倉庫群、金浦・久我邸、東本町・廣井邸をはじめとした伝統的な建造物がある。そうした笠岡の伝統的建造物の調査・保存に対しても積極的に取り組む必要があると改めて感じている。

弘前市議会・委員会室 弘前公園・外周の桜 仲町伝統的建造物保存地区




今年は、4月になって暖かい日が続き、
弘前の桜も例年より早く開花したという。
例年は、5月のゴールデンウィークが満開という。

私たちが視察に到着した頃が、満開だった。
まさに「ラッキー」だった。
 夜、弘前市議会に紹介して戴いた、古い料理屋の庭の桜も満開だった。 
食事後、全員で弘前公園を散策した。
弘前公園は、弘前城の周辺である。

中に入ると、昔懐かしい「夜店」が並んでいる。
その夜店に、まず度肝を抜いた。
とにかく夜店の数が多い。
射撃・オートバイの曲芸・占い・居酒屋・etc・・・・・・・

「夜店」の次は、見事な「桜」に度肝を抜いた。
みんなで何度も写真に収まった。
その見事な「桜」が奥に行けば行くだけ立派になるではないか。
樹齢100年を越えるような見事な「桜」が約5000本。
それも見事な「満開」である。

「感動」の連続である。

翌日の弘前市役所も、弘前公園が目の前である。
仲町伝統的建造物保存地区の現地視察も、
見事な「桜」に圧倒された。

このような立派な「桜」を育てるために、
膨大な予算を計上し、
リンゴ職人のプロの技術で育てているという。

素晴らしい「感動」には、
想像を絶する苦労があったのだ。

笠岡市の「太陽の広場」の堤防に桜並木がある。
今まで、いろいろなボランティア団体が年に2回の草刈りを行ってきた。
今年からはボランティア団体の草刈りを止めて、
笠岡市が管理を行うようになる。
この桜並木をどのように育てていくのか。
弘前市の取り組みを学ぶ必要があるのではないか。


弘前公園・満開の桜 2001.04.26




添付資料

 視察資料  視察状況写真 名刺




【3】 秋田県 大館市議会

住所

〒017-8555 秋田県大館市字中城20

電話

TEL 0186-49-3111 

視察案件

市民文化会館.
大館樹海ドーム

期日

平成13年4月26日(木) 13:40〜16:10

応対者


 大館市議会事務局 笹谷能正氏

(財)大館市文教振興事業団 大館市民文化会館 管理課 課長 野呂陽一氏

(財)大館市文教振興事業団 大館市民文化会館 工藤哲也氏

(株)スペースプロジェクト 大館市民会館舞台管理総括責任者 田口優一氏

(財)大館市文教振興事業団 大館樹海ドーム 館長 小畑敬三郎氏

視察状況

別紙写真の通り

訪問施設

大館市民文化会館

大館樹海ドーム


概要

 
 大館市は、秋田県の北部に位置する。北は青森県に接している。
 人口は約6.8万人。

市民文化会館

大館市字桜町南45−1  TEL 0186-49-7066 FAX 0186-49-7069

近代建築の粋を集め、秋田杉と大館市特産の曲わっぱの美を生かした芸術文化の総合施設として昭和57年6月に総工費約24億円で開館し多くの市民が利用している。

高度な芸術文化の鑑賞機会の提供をし、芸術文化団体の育成に努めている。現在、舞台機構のリニューアル中である。リニュアルは、3年間で約5億円をかけ、照明や音響設備を更新している。これだけの多額のリニューアルによって、時代に即した施設となり長い期間の利用が可能になるという。
 笠岡市の市民会館も昭和49年の開館で老朽化している。リニューアルについても検討する必要があると思う。特に生涯学習センターの建設が当分見込めないことだし、そうした複合的な機能を持たせた施設にリニューアルという事も考えなくてはならないのではないか。

大館市民文化会館の概要 は、敷地面積、16,648u 。建築延面積、6,381.7u。 建築面積、5,074.8u 。構造し、鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造、地下1階・地上3階 ・塔屋1階である。主な施設は、大ホール・中ホール・会議室・練習室・リハーサル室・展示室・駐車場(200台)

大ホールは、収用人員 (定席 1198席、母子席 4席、車椅子席 4席) 舞台(間口 18m、奥行 16.5m、高さ 8.5m ) 吊物 (緞帳1、オペラカーテン1、その他吊物一式 ) 照明 (調光操作卓プリセットフェーダー66本×3段) 音響 (音声調整卓入力32ch、8プログラム) その他 (16mm映写機×2、スライド映写機1、オーケストラピット1 ・ピアノ《ヤマハ、スタインウェイ》)

中ホールは、定席 414席、車椅子席 2席。

会議室・練習室・リハーサル室

名称

広さ

定員

第1会議室

65平方メートル

20人

第2会議室

50平方メートル(30畳)

36人

第1練習室

56平方メートル

24人

第2練習室

56平方メートル

24人

第3練習室

68平方メートル

42人

リハーサル室

93平方メートル



 
大館樹海ドーム

大館市文教振興事業団「大館樹海ドーム」企画管理課
〒017-0031秋田県大館市上代野字稲荷台1-1
      Tel 0186-45-2500 Fax 0186-45-2220

大館樹海ドームは、「地元産秋田杉による木造ドーム」というコンセプトの元、全天候型多目的大空間施設として誕生した。北国の冬は、厳しい寒さと雪に閉ざされる。しかし大館樹海ドームは、冬でも、スポーツに、イベントにと様々な用途で活用できる。  
 設計施工コンペにより、エリア全体の自然と調和した流麗なデザインが評価を得た「伊東豊雄建築設計事務所・竹中工務店共同企業体」による設計・施工が決定。平成7年7月に着工、2年後の平成9年6月に竣工、平成9年7月1日には、大館市文教振興事業団が運営を受託、平成9年8月1日にオープンした。秋田杉の大断面集成材による、前代未聞の大規模構造物を建設するため、数々の技術的困難を克服、これより培われた技術は、国産材の高度利活用につながるものとして広く注目を集めている。

大館樹海ドームは、多目的アリーナの他に多目的室(3室)、会議室、ロッカールーム、シャワー室、大会役員室、審判室、放送室等を備え、多様なニーズに応うることができる。また14haの敷地内には、サブグラウンドとして利用できる「コミュニティ広場」等の3面の芝生、世界の広葉樹を集めた「語らいの森」、水辺の憩いを提供する人工池の「親水公園」、1465台収容可能な大駐車場があり、全体として一大スポーツレクリエーションエリアを形成している。付属施設の「パークセンター」には、レストラン「アリーナ」、売店「ハチ公ショップ」、地元出身有名スポーツ選手の記念品を集めた「展示コーナー」と「パークセンター多目的室」がある。

大館市は、秋田県でも青森県に近い内陸部である。高速道路のICもはずれて、決して交通の便は良くない場所に、秋田県が約76億円の建設費全額、大館市が約20億円で土地とアクセス道を整備し平成9年6月に大館樹海ドームが完成した。

現在、財団法人大館市文教振興事業団が、大館市の市民文化会館と大館樹海ドームを管理している。この大館樹海ドームには、大館市から年間、約1億4000万円の管理費(人件費を含む)に対し、使用料等の収入が約7000万円ということで、収支では約7000万円のマイナスとなる。しかしながら、市全体の経済波及効果は想像以上の結果だという事である。施設の利用率も高く、まず大館市が「元気」になったと言われた。冗談なような話で、健康な人が増えて、病人も減っているという説明も受けた。
 いろいろなイベントを企画し、今年も世界最大の紙の折鶴でギネスに挑戦して成功している。野球・ソフトボール・企業運動会を初めとした各種スポーツ、ダンス、コンサート、イベント等、様々な利用がなされている。

最近では、スマップやキンキ・キッズのコンサートで全国から多くの若者が集まって、周辺の町までパニック状態(コンビニや商店の食料品が売り切れる。周辺の宿泊施設がすべて満員となる。等々)になるぐらいの経済波及効果があったとの事である。こうしたコンサートは1日、15,000人、2日の開催で約30,000人の若者が集まるという。

秋田県の北部内陸部で、交通の便の悪い大館市がこうして元気な街に生まれ変わった。ドーム建設に対しては、周辺の町と一緒になって、秋田県に何度も建設できるよう大館広域圏屋根付多目的グランド建設誘致促進期成同盟会が建設要望書を提出し、積極的に働きかけたという。

笠岡市において、西部アグリスポーツ公園整備事業が復活した。現在、笠岡市においては、体育館を当初の25億円の建設費を圧縮して約20億円で建設するという事で、本年度の当初予算で設計委託料と一部、建築費が計上されている。

当初から、県と市の共同事業で県が7に対して市が3の割合ということになっている。現在の県の予定は、陸上競技場を建設するということだが、陸上競技場よりは、大館市のような多目的に使用できるドームの方が望ましいのではないだろうか。(ドームの場合、多目的に利用できるので稼働率が高くなる。陸上競技場だと利用が限られてくる。)

市民文化会館・会議室 樹海ドーム・会議室 樹海ドーム・内部


添付資料

 視察資料  視察状況写真 名刺




【4】 青森県教育庁文化財保護課・三内丸山遺跡対策室 

住所

〒038-0031 青森県青森市大字三内字丸山293

電話

TEL 0177-81-6078  FAX 0177-81-6078

視察案件

三内丸山遺跡の整備について

期日

平成13年4月27日(金) 10:15〜11:45

応対者


青森県教育庁文化課 三内丸山遺跡対策室 解説員 工藤玉栄氏

視察状況

別紙写真の通り

訪問施設

三内丸山遺跡


概要


 三内丸山遺跡は、青森市の西南、都市計画公園である青森県総合運動公園内にあり、1995年度から、都市公園事業により復元整備を行い、現在、一部を開園している。平成12年11月24日には、縄文時代の遺跡としては44年ぶり、全国で3番目となる国の特別史跡に指定された。

発見された遺構の時期は、縄文時代、平安時代、中世〜近世にわたるが、中心となるのは縄文時代前・後期の遺構である。これら縄文時代の遺構の分布概要は下図のとおりである。また、主な遺構の検出数は旧球場場予定地内だけで以下のとおりであり、出土遺物は、1992年度から1994年度までの3年間の調査で、リンゴ箱約4万箱にのぼっている。

遺跡北西の台地の縁に近い場所から出土した「大型掘立柱建物」跡は、この遺跡のすごさを大地の底から訴え、遺跡の保存を決定づけたといっても過言でない遺構である。巨大な構築物の存在を連想させるこの遺構は、三内丸山遺跡の象徴的存在となっている。専門家の間で用途や構造等について様々論議されているが、大きく建物説と非建物説(木柱列説)に別れ、論争に決着を見ていない。

現段階では、祭殿や神殿などの宗教的施設、あるいは、物見櫓、灯台、魚の見張り台、天文台などの実用的な用途を持った施設であるとする見方があるが、三内丸山遺跡の大きな謎のひとつである。
 柱は、6本柱で、1列に3個ずつ2列の配列となっており、柱の間隔は何れも4.2mと規則的である。柱の根入れは、2mから2.5mである。柱穴に残っていた木柱は、分析の結果、材質はクリで、防腐処理のためか、あるいは焼きながら伐採したのか、焼き焦がしてあることが分かった。柱穴の埋め戻し土が固く締まっていたことから、入念に施工されたと考えられる。注目されるのは、遺構の分析から柱が2度から3度内側に傾き、建築学的に「内転び」構造になっていた可能性があることがわかっており、若干ではあっても柱が傾倒した状態で自立していたとすれば不安定になることから、柱が上部で連結されていたことが想定できる。さらに、株式会社大林組が柱直下と周辺の土についてのN値、含水比を調査した結果、試験結果の数値に明確な差が認められ、柱直下には、柱以外の部材を想定しなければ説明の付かない相当の荷重が掛かっていたという調査結果を得ている。この調査結果の一部は、季刊大林NO.42(1996年)に掲載されている。また、青森県内には、今でも、胸高で直径1m、幹高15mクラスのクリの木が現存し、立派に生育している。
 県は、これらの調査を基に、建物説に立った復元をすることにしたが、将来、学術的な研究がさらに進み、一定の結論が得られたときは、建替えや修正を行うことにしている。屋根については、建物説に立つ専門家の間でもその構造や材料について様々な見解があるため、復元せず、今後の専門的な検討に委ねることにした。設計は、八戸工業大学建築学科の高島成侑教授に依頼した。

遺跡の範囲が35haと広大である。1993年度から1995年度までの3ケ年の発掘調査により500棟を超える大小の建物跡、大人の墓列、子供の墓群、ゴミ捨て場、土器等が集中的に廃棄された盛土遺構、貯蔵穴群、粘土採掘跡などが確認されている。

これらは、一定の場所に長期間作られており、計画的な集落づくりが行われていた。さらに、隣接して三内丸山遺跡の周辺には、同時代の遺跡が多数存在する。三内丸山遺跡とどのような関連があるか興味深い。このことから、縄文時代の集落構造を考える上で欠かすことのできない日本最大の縄文集落の遺跡である。

今から約5500年前から4000年前まで(縄文時代前期から中期まで)の1500年間にわたって継続して営まれた集落である。検出された遺物や遺構から集落や植生環境の変遷を知ることができる。およそ1500年間も継続して営まれた縄文集落の跡で遺跡の情報量が膨大である。

1995年度現在で、段ボール箱で約4万個に上る遺物が検出されている。これは、青森県で出土する埋蔵文化財の30年分、日本全国1年間に出土する埋蔵文化財の数倍にも相当する。この中には、土器、石器、骨角器等の他、通常は失われていることの多い種子、花粉、堅果、繊維などの植物遺体、多種多様な木製品、大量の動物や魚の骨などの動物遺体が良好な状態で取り出された。当時の集落、自然環境、食生活、交易など縄文文化の解明が今後の本格的な研究に委ねられる。

三内丸山遺跡は、居住域、高床倉庫群、大型掘立柱建物、廃棄ブロック、大人の墓地、子供の墓地などの配置に規則性が認められ、計画的な土地利用が行われていたと考えられる。現代風に言えば、「縄文の都市計画」が存在したことになる。

遺跡から直径約1メートル(最大で103cm)もの木柱が発見された。地面に直径2m、深さ2.5mの穴を掘り、そこに太い柱を立てていた。柱跡は6個あり、3個1列のものが2列並んでいる。柱と柱の間は、いずれも4.2メートルとなっている。4.2mが、35cm又は70cmの倍数になっていることから、「縄文尺」が存在した可能性が指摘されている。
 これが何であったかについては、専門家の見解が建物説と木柱列説に大きく分かれているが、今まで、縄文時代の遺跡から1mを超えるような大木を使用した遺構は発見されていない。この他、長軸32m、短軸9mの大型竪穴住居跡が検出されており、三内丸山人は 、想像以上の高度な土木建築技術を持っていたことが分かる。
 三内丸山遺跡から赤漆を塗った木製漆器が出土した。これを基に、復元を試みたところ、直径25cm、厚さ5mmのお椀になった。鉄器やロクロなしに木材を5mmの薄
さまで加工したとすれば驚くべき技術であるし、漆技法が中国伝来のものだけでなく、日本古来から独自の発展を遂げてきた系統の存在が考えられる。
 また、イグサ科の植物繊維で編まれた高さ13cmほどのほぼ完全な袋が出土した。製法は、二本越し二本もぐりという現代でも使われる編み方で、「縄文ポシェット」と呼ばれている。中には、割れたクルミの実が一個入っていた。
 この他にも、骨を使った縫い針の微細な加工技術、硬玉であるヒスイの正確な穿孔技術など現代人も驚く加工技術が存在した。

遺跡からは、他の遺跡でよく見られるイノシシ、シカなど大型獣の遺体が少なく、ノウサギやムササビなどの小型動物、イワシ、ブリ、マグロ、タイ、ヒラメなど多彩な魚類の骨、中にはクジラやオットセイの骨までも発見されている。また、クリ、クルミ、ドングリなどの堅果類、イネ科植物であるイヌビエのプラントオパール(ガラス質の細胞)が大量に発見されていることから、集落の人口を支える重要な食料になっていたという指摘がある。この他、ニワトコの種子とともに発酵物を好むショウジョウバエの蛹(さなぎ)らしきものが出土していることから酒を醸造していた可能性も指摘されている。

縄文人の食生活は、基本的に狩猟採集に依存したものであったが、多種多様な物を食料源にし、想像以上に豊かであったのである。

遺跡から新潟県糸魚川産のヒスイ、北海道産の黒曜石、秋田産のアスファルト、岩手県産の琥珀が出土した。これらの事実は、縄文時代に既に広域的な交易が行われていたことを物語っている。その交易ルートの一部が海上であったことは、明らかである。それを裏付けるかのように、舟の櫂(オール)のようなものが出土している。

遺跡北側の谷から人骨が発見された。墓に埋葬されなかった人がいたのである。無造作に廃棄された死体は、何を物語っているのだろあうか。さらに、集落構成の規則性や膨大な労力を必要とする巨大構築物からも、当時の縄文社会には、原始社会に抱く自由・平等のイメージと少し異なる厳しいルールや強いリーダーの存在を感じ取ることができる。

静岡大学農学部の佐藤洋一郎助教授が遺跡から出土したクリの実のDNA分析を行った結果、規則的な配列が見られ、栽培されていたことが分かっている。また、縄文前期と推定される地層に残されていた花粉の分析を行った結果、クリの花粉が80%も占めていた。このことから、クリ林を計画的に栽培し、管理していたのではないかと考えられている。遺跡からはイネ科植物であるイヌビエのプラントオパールが大量に見つかっており、食料にしていた可能性が高い。これが栽培されたものである証明はなされていないが、日本における農耕の起源の見直しを迫るものとなるか、注目される。

大人の墓は、居住区域から離れ、舌状台地上を東に伸び、途中、東南方向におれて台地を降り、底湿地に向かって列状に伸びている。墓は、道を挟んで配置されているように見える。これまでに420mにわたって220基以上の墓が発見されている。墓の先端は、縄文時代には海岸であった可能性のある底湿地まで伸びていることが確認されている。まさに、「縄文の墓園」とでも呼ぶにふさわしい。墓の先端に何があるか、大変興味深いが、今後の発掘調査を待たなければならない。埋葬方法は土葬で、屈葬と考えられる。中には、石冠や石鏃を伴っている墓もある。墓の形態は楕円形、隅丸長方形が主体で、平均的な大きさは長軸約140cm、短軸約70cm、深さ約30cmである。墓は、底面が列間の中央に向かって傾斜をし、マウンドを形成していた。一部に配石墓も存在する。
 子供の墓は、大人の墓域と別に、居住区域のすぐそばにある。しかも、底が割られたり、小さな穴をあけた土器(埋設土器)に入れて葬られている。埋設土器に1、2個の小石を伴っているものもある。哲学者の梅原猛氏は、「この世の生活を堪能できずにあの世に送り返すのは不憫である。祖先の霊に申し訳ないから、できるだけ早く再び母親の胎内に帰ってきて、新たな生命として復活するようにとの論理がはたらいて、住居の近くに埋めるのである。」(梅原猛、安田喜憲編著「縄文文明の発見」より抜粋)と解釈している。子供の墓は、これまでに880基見つかっている。

盛土遺構は、土器や石器のほかに、竪穴住居を造った際の排土や炉で煮炊きした際の焼けた土や燃えかすなどを何度にも渡って棄て続けたことによって造られた。盛土表面が平坦なことから、常に整地されていたと考えられる。

棄てられた土器をよく観察すると、下の方の土器から上の方の土器に時代が変わっていく様子がよく分かる。土器の変化から、約1000年にも及ぶ継続的廃棄を読み取ることができる。

土器と土器の間の土を丹念に調査することによって、土器が使われていた時代ごとの環境を読み取ることができたり、燃えかすから食べ物などが復元できるなど、縄文文化のより深い解明の可能性が広がる。

縄文時代の中期に最大の広がりを持った三内丸山遺跡は、その後、急速にその姿をなくしていった。それは、縄文時代後期(約4000年前)のことである。
 現在より平均気温で2度から3度高く、海面も今より5mほど高かった縄文時代前期に比べ、次第に気温も下がり、海も遠ざかっていった。おそらく、海の恵みや森の実りに頼っていた三内丸山遺跡の人々は、食べ物が不足したものと考えられる。

新たな環境に適応するため、人々は集落を拡散・分散させたのだろうか。また、大きくなり過ぎた集落ではいさかいが絶えなかったり、あるいは病気が蔓延したために集落の維持が難しくなったのか、謎は深まる。

三内丸山遺跡に栄えた円筒土器文化は、東北北部から北海道南西部までとれている。
 しかし、三内丸山遺跡から出土したヒスイは600kmも離れた新潟県の糸魚川産のものであった。黒曜石は北海道の十勝産のものといわれている。当時、文化圏を異にする地域まで、広範な交流があったのである。その移動手段は、海路であったと考えられている。外洋まで出てマグロなどを捕らえていたと考えられる三内丸山人にとって、船を操るのはたやすいことだったのか、それとも北陸の縄文人が潮流に乗ってやってきたのだろうか、謎は深まる。

三内丸山遺跡からはたくさんの土器や土偶が出土しているが、それは、一つの集落や家族で用いたと考えるには、あまりにも多すぎる。
 また、遺跡からは、土器などの材料である粘土を採掘した跡が見つかっている。このことから、三内丸山遺跡で土器などを作り、周辺の集落に供給していたとも考えられる。
 土偶は、これまでに約700体ほど見つかっている。土器の数は膨大であり、把握しきれていない。


三内丸山遺跡



この度の、行政視察においては、現地での移動はすべて
「レンタカー」である。
常任委員会の行政視察は、議会の行政改革のひとつとして、
一人あたりの費用が(年1回)
12万円から10万円に減額されている。

10万円以内の予算であると、行くことができる場所が限定されてしまう。
この度のように、岡山空港から羽田経由、青森空港の往復だと、
正規運賃を支払えば、特割往復航空券だけでも85,700円となる。
そこで、航空会社やツーリストの特別パック料金のツアーを
組み合わせることにした。

岡山から青森の往復で、宿泊付きというパックがあった。
宿泊のホテルは、指定されたホテルの中から選択できる。
それに、もう1泊を別に予約する。

それでも10万円ではきつい。
むこうでの移動が、とにかく車でないと無理がある。
バス・JRを乗り継ぐと、移動時間が長くなり過ぎる。
また、視察先も限られてくる。

そこて、議会事務局・定平次長に、また無理をお願いした。
幸い運転することを、快く受けてくれた。
レンタカーの移動に決まった。
こうして、レンタカーによる経費節減と、
委員からの積立金を合わせて何とか見通しがついた。
  これに委員長・副委員長の寸志を加えれば、いくらか余裕もでてくる。   

レンタカーであれば、自由がきく。
通常、2ヶ所程度の視察しか無理だが、今回は4ヶ所視察できた。
視察の受け入れ先も、早々と1月から打診をしていた事もあって
思いのほかスムーズに決まった。

レンタカーの移動という事で、途中思いがけない事もあった。
八甲田山の東側を抜けて青森・三内丸山遺跡に向かう途中、
生まれてはじめて、「雪の壁」を通過した。
まるで子供みたいだが、純粋に「感動」した。

その「雪の壁」を通過していると、やっと除雪している駐車場に到着した。
朝、ホテルを早めに出ていたので、休憩することとした。
そこは、ドライブインと思いきや、湯治場なのである。
古い木造の湯治場には、湯治客やスキー客がいた。
何と、その温泉に、500円で入浴できるという。
「酢ケ湯」温泉という湯治場だったのだ。

木造の古い体育館のような大浴場である。
「千人風呂」と書かれている。
風邪気味の教育長以外、全員、入浴した。
まさに、歴史のある湯治場に偶然出会えたのである。
混浴で、詰めれば1000人も入れるのだろうか。
名前のとおり、酸っぱい味のお湯で、独特の硫黄の臭いがしていた。
その30分程の休憩でリフレッシュして、
青森の三内丸山古墳に向かった。


青森へレンタカーて゜移動中「八甲田山」の東側・雪の壁



添付資料

 視察資料  視察状況写真 名刺