三内丸山遺跡は、青森市の西南、都市計画公園である青森県総合運動公園内にあり、1995年度から、都市公園事業により復元整備を行い、現在、一部を開園している。平成12年11月24日には、縄文時代の遺跡としては44年ぶり、全国で3番目となる国の特別史跡に指定された。
発見された遺構の時期は、縄文時代、平安時代、中世〜近世にわたるが、中心となるのは縄文時代前・後期の遺構である。これら縄文時代の遺構の分布概要は下図のとおりである。また、主な遺構の検出数は旧球場場予定地内だけで以下のとおりであり、出土遺物は、1992年度から1994年度までの3年間の調査で、リンゴ箱約4万箱にのぼっている。
遺跡北西の台地の縁に近い場所から出土した「大型掘立柱建物」跡は、この遺跡のすごさを大地の底から訴え、遺跡の保存を決定づけたといっても過言でない遺構である。巨大な構築物の存在を連想させるこの遺構は、三内丸山遺跡の象徴的存在となっている。専門家の間で用途や構造等について様々論議されているが、大きく建物説と非建物説(木柱列説)に別れ、論争に決着を見ていない。
現段階では、祭殿や神殿などの宗教的施設、あるいは、物見櫓、灯台、魚の見張り台、天文台などの実用的な用途を持った施設であるとする見方があるが、三内丸山遺跡の大きな謎のひとつである。
柱は、6本柱で、1列に3個ずつ2列の配列となっており、柱の間隔は何れも4.2mと規則的である。柱の根入れは、2mから2.5mである。柱穴に残っていた木柱は、分析の結果、材質はクリで、防腐処理のためか、あるいは焼きながら伐採したのか、焼き焦がしてあることが分かった。柱穴の埋め戻し土が固く締まっていたことから、入念に施工されたと考えられる。注目されるのは、遺構の分析から柱が2度から3度内側に傾き、建築学的に「内転び」構造になっていた可能性があることがわかっており、若干ではあっても柱が傾倒した状態で自立していたとすれば不安定になることから、柱が上部で連結されていたことが想定できる。さらに、株式会社大林組が柱直下と周辺の土についてのN値、含水比を調査した結果、試験結果の数値に明確な差が認められ、柱直下には、柱以外の部材を想定しなければ説明の付かない相当の荷重が掛かっていたという調査結果を得ている。この調査結果の一部は、季刊大林NO.42(1996年)に掲載されている。また、青森県内には、今でも、胸高で直径1m、幹高15mクラスのクリの木が現存し、立派に生育している。
県は、これらの調査を基に、建物説に立った復元をすることにしたが、将来、学術的な研究がさらに進み、一定の結論が得られたときは、建替えや修正を行うことにしている。屋根については、建物説に立つ専門家の間でもその構造や材料について様々な見解があるため、復元せず、今後の専門的な検討に委ねることにした。設計は、八戸工業大学建築学科の高島成侑教授に依頼した。
遺跡の範囲が35haと広大である。1993年度から1995年度までの3ケ年の発掘調査により500棟を超える大小の建物跡、大人の墓列、子供の墓群、ゴミ捨て場、土器等が集中的に廃棄された盛土遺構、貯蔵穴群、粘土採掘跡などが確認されている。
これらは、一定の場所に長期間作られており、計画的な集落づくりが行われていた。さらに、隣接して三内丸山遺跡の周辺には、同時代の遺跡が多数存在する。三内丸山遺跡とどのような関連があるか興味深い。このことから、縄文時代の集落構造を考える上で欠かすことのできない日本最大の縄文集落の遺跡である。
今から約5500年前から4000年前まで(縄文時代前期から中期まで)の1500年間にわたって継続して営まれた集落である。検出された遺物や遺構から集落や植生環境の変遷を知ることができる。およそ1500年間も継続して営まれた縄文集落の跡で遺跡の情報量が膨大である。
1995年度現在で、段ボール箱で約4万個に上る遺物が検出されている。これは、青森県で出土する埋蔵文化財の30年分、日本全国1年間に出土する埋蔵文化財の数倍にも相当する。この中には、土器、石器、骨角器等の他、通常は失われていることの多い種子、花粉、堅果、繊維などの植物遺体、多種多様な木製品、大量の動物や魚の骨などの動物遺体が良好な状態で取り出された。当時の集落、自然環境、食生活、交易など縄文文化の解明が今後の本格的な研究に委ねられる。
三内丸山遺跡は、居住域、高床倉庫群、大型掘立柱建物、廃棄ブロック、大人の墓地、子供の墓地などの配置に規則性が認められ、計画的な土地利用が行われていたと考えられる。現代風に言えば、「縄文の都市計画」が存在したことになる。
遺跡から直径約1メートル(最大で103cm)もの木柱が発見された。地面に直径2m、深さ2.5mの穴を掘り、そこに太い柱を立てていた。柱跡は6個あり、3個1列のものが2列並んでいる。柱と柱の間は、いずれも4.2メートルとなっている。4.2mが、35cm又は70cmの倍数になっていることから、「縄文尺」が存在した可能性が指摘されている。
これが何であったかについては、専門家の見解が建物説と木柱列説に大きく分かれているが、今まで、縄文時代の遺跡から1mを超えるような大木を使用した遺構は発見されていない。この他、長軸32m、短軸9mの大型竪穴住居跡が検出されており、三内丸山人は
、想像以上の高度な土木建築技術を持っていたことが分かる。
三内丸山遺跡から赤漆を塗った木製漆器が出土した。これを基に、復元を試みたところ、直径25cm、厚さ5mmのお椀になった。鉄器やロクロなしに木材を5mmの薄さまで加工したとすれば驚くべき技術であるし、漆技法が中国伝来のものだけでなく、日本古来から独自の発展を遂げてきた系統の存在が考えられる。
また、イグサ科の植物繊維で編まれた高さ13cmほどのほぼ完全な袋が出土した。製法は、二本越し二本もぐりという現代でも使われる編み方で、「縄文ポシェット」と呼ばれている。中には、割れたクルミの実が一個入っていた。
この他にも、骨を使った縫い針の微細な加工技術、硬玉であるヒスイの正確な穿孔技術など現代人も驚く加工技術が存在した。
遺跡からは、他の遺跡でよく見られるイノシシ、シカなど大型獣の遺体が少なく、ノウサギやムササビなどの小型動物、イワシ、ブリ、マグロ、タイ、ヒラメなど多彩な魚類の骨、中にはクジラやオットセイの骨までも発見されている。また、クリ、クルミ、ドングリなどの堅果類、イネ科植物であるイヌビエのプラントオパール(ガラス質の細胞)が大量に発見されていることから、集落の人口を支える重要な食料になっていたという指摘がある。この他、ニワトコの種子とともに発酵物を好むショウジョウバエの蛹(さなぎ)らしきものが出土していることから酒を醸造していた可能性も指摘されている。
縄文人の食生活は、基本的に狩猟採集に依存したものであったが、多種多様な物を食料源にし、想像以上に豊かであったのである。
遺跡から新潟県糸魚川産のヒスイ、北海道産の黒曜石、秋田産のアスファルト、岩手県産の琥珀が出土した。これらの事実は、縄文時代に既に広域的な交易が行われていたことを物語っている。その交易ルートの一部が海上であったことは、明らかである。それを裏付けるかのように、舟の櫂(オール)のようなものが出土している。
遺跡北側の谷から人骨が発見された。墓に埋葬されなかった人がいたのである。無造作に廃棄された死体は、何を物語っているのだろあうか。さらに、集落構成の規則性や膨大な労力を必要とする巨大構築物からも、当時の縄文社会には、原始社会に抱く自由・平等のイメージと少し異なる厳しいルールや強いリーダーの存在を感じ取ることができる。
静岡大学農学部の佐藤洋一郎助教授が遺跡から出土したクリの実のDNA分析を行った結果、規則的な配列が見られ、栽培されていたことが分かっている。また、縄文前期と推定される地層に残されていた花粉の分析を行った結果、クリの花粉が80%も占めていた。このことから、クリ林を計画的に栽培し、管理していたのではないかと考えられている。遺跡からはイネ科植物であるイヌビエのプラントオパールが大量に見つかっており、食料にしていた可能性が高い。これが栽培されたものである証明はなされていないが、日本における農耕の起源の見直しを迫るものとなるか、注目される。
大人の墓は、居住区域から離れ、舌状台地上を東に伸び、途中、東南方向におれて台地を降り、底湿地に向かって列状に伸びている。墓は、道を挟んで配置されているように見える。これまでに420mにわたって220基以上の墓が発見されている。墓の先端は、縄文時代には海岸であった可能性のある底湿地まで伸びていることが確認されている。まさに、「縄文の墓園」とでも呼ぶにふさわしい。墓の先端に何があるか、大変興味深いが、今後の発掘調査を待たなければならない。埋葬方法は土葬で、屈葬と考えられる。中には、石冠や石鏃を伴っている墓もある。墓の形態は楕円形、隅丸長方形が主体で、平均的な大きさは長軸約140cm、短軸約70cm、深さ約30cmである。墓は、底面が列間の中央に向かって傾斜をし、マウンドを形成していた。一部に配石墓も存在する。
子供の墓は、大人の墓域と別に、居住区域のすぐそばにある。しかも、底が割られたり、小さな穴をあけた土器(埋設土器)に入れて葬られている。埋設土器に1、2個の小石を伴っているものもある。哲学者の梅原猛氏は、「この世の生活を堪能できずにあの世に送り返すのは不憫である。祖先の霊に申し訳ないから、できるだけ早く再び母親の胎内に帰ってきて、新たな生命として復活するようにとの論理がはたらいて、住居の近くに埋めるのである。」(梅原猛、安田喜憲編著「縄文文明の発見」より抜粋)と解釈している。子供の墓は、これまでに880基見つかっている。
盛土遺構は、土器や石器のほかに、竪穴住居を造った際の排土や炉で煮炊きした際の焼けた土や燃えかすなどを何度にも渡って棄て続けたことによって造られた。盛土表面が平坦なことから、常に整地されていたと考えられる。
棄てられた土器をよく観察すると、下の方の土器から上の方の土器に時代が変わっていく様子がよく分かる。土器の変化から、約1000年にも及ぶ継続的廃棄を読み取ることができる。
土器と土器の間の土を丹念に調査することによって、土器が使われていた時代ごとの環境を読み取ることができたり、燃えかすから食べ物などが復元できるなど、縄文文化のより深い解明の可能性が広がる。
縄文時代の中期に最大の広がりを持った三内丸山遺跡は、その後、急速にその姿をなくしていった。それは、縄文時代後期(約4000年前)のことである。
現在より平均気温で2度から3度高く、海面も今より5mほど高かった縄文時代前期に比べ、次第に気温も下がり、海も遠ざかっていった。おそらく、海の恵みや森の実りに頼っていた三内丸山遺跡の人々は、食べ物が不足したものと考えられる。
新たな環境に適応するため、人々は集落を拡散・分散させたのだろうか。また、大きくなり過ぎた集落ではいさかいが絶えなかったり、あるいは病気が蔓延したために集落の維持が難しくなったのか、謎は深まる。
三内丸山遺跡に栄えた円筒土器文化は、東北北部から北海道南西部までとれている。
しかし、三内丸山遺跡から出土したヒスイは600kmも離れた新潟県の糸魚川産のものであった。黒曜石は北海道の十勝産のものといわれている。当時、文化圏を異にする地域まで、広範な交流があったのである。その移動手段は、海路であったと考えられている。外洋まで出てマグロなどを捕らえていたと考えられる三内丸山人にとって、船を操るのはたやすいことだったのか、それとも北陸の縄文人が潮流に乗ってやってきたのだろうか、謎は深まる。
三内丸山遺跡からはたくさんの土器や土偶が出土しているが、それは、一つの集落や家族で用いたと考えるには、あまりにも多すぎる。
また、遺跡からは、土器などの材料である粘土を採掘した跡が見つかっている。このことから、三内丸山遺跡で土器などを作り、周辺の集落に供給していたとも考えられる。
土偶は、これまでに約700体ほど見つかっている。土器の数は膨大であり、把握しきれていない。
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三内丸山遺跡 |
この度の、行政視察においては、現地での移動はすべて
「レンタカー」である。
常任委員会の行政視察は、議会の行政改革のひとつとして、
一人あたりの費用が(年1回)
12万円から10万円に減額されている。
10万円以内の予算であると、行くことができる場所が限定されてしまう。
この度のように、岡山空港から羽田経由、青森空港の往復だと、
正規運賃を支払えば、特割往復航空券だけでも85,700円となる。
そこで、航空会社やツーリストの特別パック料金のツアーを
組み合わせることにした。
岡山から青森の往復で、宿泊付きというパックがあった。
宿泊のホテルは、指定されたホテルの中から選択できる。
それに、もう1泊を別に予約する。
それでも10万円ではきつい。
むこうでの移動が、とにかく車でないと無理がある。
バス・JRを乗り継ぐと、移動時間が長くなり過ぎる。
また、視察先も限られてくる。
そこて、議会事務局・定平次長に、また無理をお願いした。
幸い運転することを、快く受けてくれた。
レンタカーの移動に決まった。
こうして、レンタカーによる経費節減と、
委員からの積立金を合わせて何とか見通しがついた。
これに委員長・副委員長の寸志を加えれば、いくらか余裕もでてくる。
レンタカーであれば、自由がきく。
通常、2ヶ所程度の視察しか無理だが、今回は4ヶ所視察できた。
視察の受け入れ先も、早々と1月から打診をしていた事もあって
思いのほかスムーズに決まった。
レンタカーの移動という事で、途中思いがけない事もあった。
八甲田山の東側を抜けて青森・三内丸山遺跡に向かう途中、
生まれてはじめて、「雪の壁」を通過した。
まるで子供みたいだが、純粋に「感動」した。
その「雪の壁」を通過していると、やっと除雪している駐車場に到着した。
朝、ホテルを早めに出ていたので、休憩することとした。
そこは、ドライブインと思いきや、湯治場なのである。
古い木造の湯治場には、湯治客やスキー客がいた。
何と、その温泉に、500円で入浴できるという。
「酢ケ湯」温泉という湯治場だったのだ。
木造の古い体育館のような大浴場である。
「千人風呂」と書かれている。
風邪気味の教育長以外、全員、入浴した。
まさに、歴史のある湯治場に偶然出会えたのである。
混浴で、詰めれば1000人も入れるのだろうか。
名前のとおり、酸っぱい味のお湯で、独特の硫黄の臭いがしていた。
その30分程の休憩でリフレッシュして、
青森の三内丸山古墳に向かった。
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青森へレンタカーて゜移動中「八甲田山」の東側・雪の壁 |
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